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TAKESY
Lofi / Chill Beatmaker
日本のLofi / Chill レーベルJapanolofi Recordsのスタッフ。
海外レーベルから楽曲リリース経験あり。

◆Release Label◆
Etymology Records
Chill Moon Music
Tsunami Sounds
Lo-fi Clouds
Calm Waves Records
Wavee Sound
Japanolofi Records

よくわかるポピュラー音楽史 〜ロックンロールの隆盛と衰退〜

 

今回は、ロックンロールの隆盛について解説していきます。

前回の解説で、黒人音楽であるR&Bが白人音楽であるカントリーの影響を受けて、ロックンロールへと進化を遂げたことを解説しました。しかし、黒人音楽は人種差別の影響で表舞台に立ちにくくなってしまい、そのことに全米中の若者たちがフラストレーションを感じている。1950年代後半の出来事ですね。

 

前回はとても続きが気になるような終わり方をしましたが、今回はその続きからです。一人の大天才が登場により、ロックンロールが輝く時代へと突入し、そして衰退していくまでの出来事を時系列に沿ってお伝えしていきます。

 

目次

ロックンロールの金字塔、エルヴィス・プレスリーの登場

黒人音楽をこよなく愛したアメリカ南部の白人不良少年

 

ロックンロールの歴史を変えた重要人物は、白人の不良少年でした。

その名もエルヴィス・プレスリー。ロック好きなら知らない方はいないでしょう。

 

エルヴィスは13歳の時にアメリカ南部のテネシー州メンフィスに移住し、貧しい生活を送ることとなります。熱心なキリスト教プロテスタントでもあった彼は幼い頃から、白人の労働階級で愛されていたカントリーや、教会音楽であるゴスペルに触れて過ごしていました。彼の歌唱力の土台を作った音楽たちです。

 

メンフィスは貧しい黒人の労働者階級が特に多く、町中にはブルースやゴスペルが響き渡っていました。エルヴィスはそんな黒人たちが奏でる音楽が大好きで、公会堂のゴスペルショーを毎回観に行っていたことは有名です。

過去に一度だけ、そのゴスペルショーの入場料が払えなくて参観することができない日がありましたが、それを気に病んだ黒人シンガーが、「次回からは勝手口から入ってくるといいよ」とエルヴィスの無料観賞を認めました。彼は黒人からも愛される白人少年だったのです。

 

そんな彼がシンガーとしての道を志すのはとても自然なことでした。1953年には楽曲のレコーディングを開始し、その歌声がメンフィスのサン・レコードの目に留まります。

1954年にはライヴを経験することとなりますが、彼のステージングにびっくりした白人たちは多かったでしょう。リーゼントヘアーをばっちりキメて、腰を揺らしながら歌うその姿は黒人シンガーそのものでした。彼は瞬く間に地域で不良少年のレッテルを貼られることとなります。

 

そのライヴからわずか1ヶ月後、エルヴィスは一つの転機を迎えます。サン・レコードのスタジオで、ブルースシンガーであったアーサー・クルーダップの楽曲『That’s All Right, Mama』をふざけてアレンジを加えながらバンドで歌っていたところ、サン・レコードの代表であったサム・フィリップスがたまたまそれを聴き、急遽レコーディングしたのです。

そのアレンジとはギターをリズミカルに叩きながら歌ったもので、そのリズムがどことなく、R&Bを感じさせるものでした。

その翌日にはB面も録ることになり、ブルーグラス(カントリーのサブジャンル)シンガーの第一人者であるビル・モンローの名曲『Blue Moon of Kentucky』をバンドで演奏しました。原曲は3/4拍子のワルツ調の進行ですが、彼らはこれを4/4拍子で、ブルースアレンジを加えてレコーディングしたところ、サム・フィリップスから大絶賛でした。

 

サン・レコードからこの2曲が収録されたレコードがリリースされると、メンフィス中のラジオがこれらの楽曲を放送し、エルヴィスは街中で話題となります。彼の評判はテネシー州全域にまで及び、ついにはツアー公演を開始する程にまで人気を勝ち得ます。

その際に彼は、ライヴバンドとして黒人の女性コーラス隊を帯同することにしました。その頃から彼は、とことん黒人音楽の表現を追求するプレイスタイルを確立していました。ある時、ライヴ会場の白人プロモーターから「黒人は参加させない」と言われると、彼はその公演は何がなんでもキャンセルしました。彼にとって黒人文化は大切なもので、人種差別がとにかく許せなかったのです。

 

1950年代に入ると、アメリカ北部では黒人が新たに生み出した音楽、ロックンロールが注目を受けていましたが、人種差別的な側面が色濃く残っており、白人シンガーによる、白人向けに柔らかいアレンジをしたカバーが音楽チャートに入り込むようになっていました。

同じ楽曲でも、黒人が歌うとロックンロール、白人が歌うとカントリー&ウェスタンとして分類されることが常識だった時代ですが、エルヴィスは『ロックンロールが歌える白人シンガー』として世に売り出されることになります。

 

RCAレコードとの契約を皮切りに大ヒット

 

1955年に入ると、エルヴィスは自身のマネジメント契約にトム・パーカー大佐を起用し、サン・レコードから離れることとなります。

このトム・パーカーという男がまぁ、なかなか悪どいマネージャーだったわけですが、彼のマネジメントスキルが優れていたのも事実でした。エルヴィスは一躍スターダムへと昇り詰めていきます。

 

同年11月21日にRCAレコードと契約し、1956年1月28日にテレビ初出演を果たします。そこでエルヴィスが披露した楽曲は黒人のロックンロールでした。

黒人ライクな髪型に、黒人ライクな歌唱、そして黒人ライクなステージング。力強く歌いながら、腰を振るように踊る姿を公共の電波で披露してみせたのです。

これには全米中が驚きました。あまりに白人らしからぬステージングだっただけに、PTAや宗教団体から激しい非難も浴びせられましたが、その一方でアメリカ中の若者たちは、彼の姿に一発で心を掴まれてしまったのです。

それもそうでしょう。若者たちが親から生易しい音楽ばかり聴かされていたことは前回ご説明した通りです。これまで溜まりに溜まっていたフラストレーションが、この瞬間に、待ってましたと言わんばかりに大発散されたわけです。

 

彼はこのテレビ放送をきっかけに、ロックンロール、ロカビリー(ロックンロールとヒルビリーの融合)ミュージシャンとして世間から注目されていきます。

また、若者たちはこぞって、彼の髪型や服装を真似するようになりました。現代においても、ファッションアイコン的な音楽アーティストの真似をする若者は多いですが、この現象は1950年代後半からすでに始まっていたのです。

 

Elvis Presley(1935.01.08〜1977.08.16 42歳没)

 

 

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エルヴィスの登場を受けて、黒人のロックンロールミュージシャンたちも負けじと様々な楽曲を生み出します。前回ご紹介したファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、チャック・ベリーらは、エルヴィスとともにロックンロール創世紀を盛り上げた重要なミュージシャンとなりました。

 

次第にロックンロールは白人の音楽へ

 

こう言うと反感を持たれる方もいるかもしれませんが、ポピュラー音楽の歴史は、黒人の音楽を白人がパクっていく歴史です。

賛否両論あるでしょうが、これは紛れもない事実だと僕は思っています。

それこそ、ロックンロールがその代表例ではないでしょうか。

 

エルヴィス・プレスリーの登場は白人の労働者階級の心に火をつけました。ここから、白人のロックンロールミュージシャンが多く登場することとなります。黒人ミュージシャンは依然、差別的にメディア露出の機会を奪われていましたから、ロックンロールは世間から、『白人の音楽』として認知されていくこととなります。

 

白人のロックンロールスターたち

 

なんとなく白人ロックンロールスターたちを揶揄するような言い方になってしまいましたが、彼らの音楽は決して、黒人から盗んだだけの紛い物ではありません。

素晴らしい楽曲を数多く残していて、良い意味で黒人音楽を自分たちのフィールドに持ってきて、独自の解釈を展開しています。

ここでは当時特に活躍していたミュージシャンたちをご紹介しましょう。

 

ジェリー・リー・ルイス

 

『キラー』という愛称で親しまれていたジェリー・リー・ルイス。ロックンロール初のワイルドな男とも言われたりします。エルヴィスと同じく、サン・レコード出身です。エルヴィスで白人ロックンロールに将来性を見出していたサム・フィリップスは、早い段階で次の白人ミュージシャンの発掘に乗り出していました。

この当時のロックンロールはエレキギター、エレキベース、ドラムを主要の構成として楽曲制作をするのが主流でしたが、彼はピアノをフィーチャーしたロックンロールを展開していくことで注目を集めます。

 

1956年の『Crazy Arms』で人気に火がつき、1957年の『Whole Lotta Shakin’ Goin’ On』で世界的に有名になります。

 

Jerry Lee Lewis(1935.09.29〜現在 85歳)

 

 

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バディ・ホリー

 

エルヴィス・プレスリーから強い影響を受けたミュージシャンに、バディ・ホリーがいます。彼のスタイルも非常にアイコニックで、後世のロックンロールミュージシャンに強い影響を与えました。少人数のバンド編成で、ストラトキャスターをかき鳴らす眼鏡のこの青年は、ソングライターとしても優れた能力を持っていました。

貧乏ゆえにメンバーを雇えないことから少人数編成のバンドスタイルだったとのことですが、それがかえって注目を集めます。

 

彼の特徴はなんと言っても、アイデアの多彩さです。当時のロックンロールにおいては革新的なレコーディングに数々挑戦していました。ヴァイオリンなどのストリングスパートの導入をいち早く始めたのも彼です。ボーカルにダブリング(同じボーカルトラックを2つ用意し、微妙にずらして鳴らすことで得られる特殊なボーカル効果)を適用した始めたのも彼らのアイデアです。

 

1957年に『That’ll Be the Day / I’m Looking for Someone to Love』のシングルで注目を集めると、程なくして『Peggy Sue / Everyday』をリリース。レコーディングはかなり難航したようですが、ドラムセットのマイキングやギタースイッチのタイミング等にこだわった、彼らの意欲作です。

 

Buddy Holly(1936.09.07〜1959.02.03 22歳没)

 

 

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リッチー・ヴァレンス

 

メキシコ音楽をルーツに持ち、それらのロックンロールとの融合を目指した若き才能として著名なリッチー・ヴァレンス。

激しく踊るロックンロールではなく、R&Bやブルース寄りのゆったりとしたロックンロールを奏でていることが特徴。メキシカンロックの代表曲『La Bamba』は多くの人の耳に残っているはずです。

 

Ritchie Valens(1941.05.13〜1959.02.03)

 

 

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ビッグ・ボッパー

 

こちらもテキサス州の出身、ビッグ・ボッパー。同州のバーモントで注目を集めていたシンガーです。

彼のデビュー曲『White Lightning』はカントリーチャートでNo.1を獲得しています。活動後期には『The Big Bopper’s Wedding』、『Chantilly Lace』が大きなヒットを飛ばしていきます。

The Big Bopper’s Weddingはすごく面白い曲です。正しく結婚式で流れそうなパイプオルガンの音を、軽快なロックンロールと見事に融合しています。

 

The Big Bopper(1930.10.24〜1959.02.03 28歳没)

 

 

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ロックンロールの衰退

 

さて、若者世代から爆発的な人気を勝ち得ていたロックンロールシーンですが、実はこれはあまり長くは続きません。

1957年以降、次々に悲劇が起こり、1960年にはその勢いは完全に落ち着いてしまいます。

その一連の出来事を順にご説明していきましょう。

 

1957年末頃 リトル・リチャード突然の引退

 

前回の記事でご紹介させていただいた、黒人ロックンロール創世紀に大活躍をしていたリトル・リチャード。僕も大好きなシンガーの一人です。

そんな彼ですが、実は早い段階からゲイであることを発表していました。当時は同性愛は今以上にマイノリティで、人種差別と同じくらい差別が酷かった時代ですが、彼は派手な化粧をしながらロックンロールを歌い続けていました。

 

そんな彼は1957年、オーストラリアツアーに向かう最中の太平洋上で、乗っていた飛行機のエンジンが突如火を噴いたのを窓から目撃します。

乗客全員がパニックになるなか、リトル・リチャードも例に漏れず顔面蒼白になりました。「無事に着きますように。この願いが叶ったら僕は神職に就きます」と、彼はそのフライトの間ずっと神に祈り続けていたそうです。

結果、飛行機は無事にシドニーに到着。彼は天啓を得たとばかりにツアーをすべてキャンセルし、神学校に入学して牧師に。ロックを『悪魔の音楽』として遠ざけ、ゴスペルばかりを歌う生活を送ります。

 

1958年3月 エルヴィス・プレスリーが陸軍召集される

 

アメリカといえば、戦争の絶えない国。長きにわたり徴兵制を採用していましたが、エルヴィスも例に漏れず兵役に従事することとなります。

幸いにもその時期は大きな戦争もなく、彼が戦死することはありませんでしたが、人気絶頂期に2年間もシーンから離れることとなってしまいました。

 

1958年5月 ジェリー・リー・ルイスの妻が結婚最低年齢未満だったことが発覚

 

ピアノをフィーチャーしたロックンロールで人気を勝ち得ていたジェリー・リー・ルイス。先ほど彼をご紹介した写真では女性と一緒に写っていましたが、あの女性は彼の妻です。

彼は1958年、イギリスツアーに妻を帯同して向かう途中で、空港に待機していたリポーターに突撃されてしまいます。空港ではパスポート等、身分証明となる書類が必要だったわけですが、そこでその妻が父方の従兄弟の娘であること、そしてあろうことか、その妻が結婚最低年齢を下回る13歳であったことが発覚します。

これにより彼の印象はガタ落ちし、予定していたツアーも途中でキャンセルに。事実上業界から追放されるような形になります。

 

1958年末頃 ペイオラ・スキャンダル発生

 

前回の記事で、各レコード会社がラジオの空きスロットでレコードを流すことに積極的になっていたことをお伝えしました。各社はDJにレコードの放送を依頼し、その見返りとして謝礼金を渡す慣例があったのです。これをペイオラ(Payola。支払いを意味するPayと、当時レコードプレイヤーの代名詞であったVictrolaの合成語)と呼びます。

テレビの台頭により当時のラジオDJは賃金が低く、かなり不安定な職業だったので、DJの多くがこのペイオラによる収入に頼っていました。もともとこのペイオラを違法とする法律も存在していなかったため、レコード会社とDJの双方にとってありがたい慣例だったのです。

 

しかしそれも、1958年から変わります。ASCAP(米国作曲家作詞家出版社協会)はペイオラを放送倫理の腐敗の根元であるとして米国下院議員に意見。これを機にペイオラを贈賄とみなして禁止する法律が出来上がることとなります。

これにより、過去にペイオラをしていたDJが一斉に摘発。ロックンロールを好んで流していたトップDJアラン・フリードもその対象となり、ラジオからはロックンロールが消え、ポップス音楽が中心に流されていくこととなります。

 

1959年2月 音楽が死んだ日

 

ウィンター・ダンス・パーティと題された、3週間に渡りアメリカ中西部の24都市を複数のミュージシャンが巡るライブツアーが敢行されました。先にご紹介したバディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ビッグ・ボッパーが参加したツアーです。

厳しい寒さのなか、長い距離を過密スケジュールで巡るにも関わらず、バスが気候に耐えられるような代物ではなく、早々にエアコンが壊れてしまいます。彼らは極寒の中をバスで移動する羽目になります。このことに参加ミュージシャンたちはイラつき始めていました。

ライヴのプロモーターは可能な限り収益を上げたかったのか、ほとんど空きのないスケジュールの中で急遽、アイオワ州のクリアレイクにあるライヴハウス『サーフ・ボールルーム』での講演を2月2日にねじ込みます。移動ばかりで衣類のクリーニング等ができていなかったこともあり、プロモーターのこの決断はさらにミュージシャンたちをイラつかせることとなりました。

 

彼らは無事にライヴを終えますが、このライヴに参加したバディ・ホリーは我慢の限界だったのか、飛行機をチャーターして自分と自分のバンドは空を移動できるよう手配します。

2月3日、パイロットを含め計4人が乗れる小型の飛行機をチャーターすると、バディ・ホリーはバンドメンバーその飛行機を利用しようとしますが、おんぼろバスから開放されたかったのは他のミュージシャンも同じ。そこで誰が飛行機に乗るかを話し合うことになります。

バディー・ホリーは飛行機を手配した本人ですから、搭乗は確定でした。ビッグ・ボッパーはこのツアー中に風邪をこじらせており、バディ・ホリーのバンドメンバーであったウェイロン・ジェニングスに席を譲って欲しいと頼みました。事情を知っていたウェイロンはそれを快諾します。

ビッグ・ボッパーが飛行機に乗ることがわかると、リッチー・ヴァレンスも飛行機に乗りたいと言い出しました。小型飛行機に乗ったことがなかったこともあり、興味が湧いたのでしょう。これに対し、バディ・ホリーのもう一人のバンドメンバー、トミー・オールサップはコイントスで決めようと提案します。結果、もう一つの席はリッチー・ヴァレンスが勝ち取ります。

 

バディはメンバーのウェイロンが飛行機に乗らないことがわかると、「おんぼろバスが凍っちまうことを祈っててやるよ!」と冗談めかして言いました。それを受けてウェイロンは、同じく冗談めかして「じゃあ俺はお前のおんぼろ飛行機が落っこっちまう事を祈っててやるぜ!」と返しました。

悲しいことにそれが、現実に起こってしまいます。

 

2月3日、この飛行機はアイオワ州クリアレイクのトウモロコシ畑の真ん中に墜落します。猛吹雪の悪天候と、パイロットの技術不足による事故です。

一挙に3人のロックンロールスターを失ったこの日を、人々はのちに『音楽が死んだ日』と呼ぶようになりました。ドン・マクリーンが自身の楽曲American Pieで、この日をそう表現したことから、この呼称が定着していきました。

ウェイロンはのちに、自分が最後に言い放ってしまった言葉がトラウマとなり、以後の人生において強く悩まされることとなります。

 

1959年12月 チャック・ベリーが14歳の少女を連れて州間を不法越境

 

ほとんどこれが決定打です。

ロックンロールレジェンドであるチャック・ベリーが、州境を14歳のウェイトレスを連れて不法に跨いだとして、突然の逮捕となってしまいます。

これにより彼の評判は大きく落ちてしまい、ロックンロールの勢いは地に落ちていきます。彼は1962年には2年間の服役も経験しています。

 

リトル・リチャードの引退、ジェリー・リー・ルイスの追放、ペイオラ・スキャンダル、3人のロックンロールスターの同時訃報、そしてチャック・ベリーの逮捕。この翌年には若手ミュージシャンのエディ・コクランも、イギリスツアー中に交通事故で命を落とすことになります。

 

ロックンロールは最初の闇の時代に突入していきます。

ロックが再び注目されるのは、1960年代半ばのUKロックの熱狂からです。それまで、アメリカのロックンロールブームはなりを潜めることになります。

 

【終わりに】ロックが沈んだ後の音楽の変遷も面白い

 

ロックンロールが沈んだ後、アメリカではポップスや、ゴスペルに影響を受けたブラックミュージック、ソウルが盛り上がることになります。

次回はソウルについて取り上げていきますので、そちらもお楽しみに!

 

それでは今回はこの辺で!

また次回の更新をお楽しみに!

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