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TAKESY
Lofi / Chill Beatmaker
日本のLofi / Chill レーベルJapanolofi Recordsのスタッフ。
海外レーベルから楽曲リリース経験あり。

◆Release Label◆
Etymology Records
Chill Moon Music
Tsunami Sounds
Lo-fi Clouds
Calm Waves Records
Wavee Sound
Japanolofi Records

よくわかるポピュラー音楽史 〜ソウルミュージックの誕生〜

 

前回は1950年代のロックンロールの隆盛と、50年代後半のロックの闇の時代についてご紹介しました。

ロックンロールは白人が黒人からパクった文化だというお話もしましたが、白人たちがロックンロールを盛り上げているのと時を同じくする頃、黒人たちはR&Bから派生したもう一つのジャンル、ソウルミュージックを生み出していきます。

今回はソウルの成り立ちについて触れていきましょう。

 

目次

ドゥーワップというジャンルの存在

 

これまでご紹介してきた音楽ジャンルは、いずれも楽器による伴奏が大きなファクターとなっているものばかりでした。

ですがよくよく考えてみれば、労働階級の貧困化が深刻であった時代に、ミュージシャンを志す方の全員が楽器を持っていたはずもありません。この頃には楽器を持たないコーラスグループも誕生していきます。

 

遡ること1920年代。一人の天才的なジャズミュージシャンが、楽曲を盛り上げる目的で歌声をジャズの一部として活用し始めました。サッチモディッパーマウスの愛称で知られるルイ・アームストロングです。

 

Louis Armstrong(1901.08.04〜1971.07.06 69歳没)

 

 

 

ルイ・アームストロングこそ、ジャズに歌声を導入した第一人者だと言えます。

彼は1926年に、楽曲『Heebie Jeebies』でジャズ史上初めて、歌声のパートを披露しました。この曲には歌詞を伴った歌唱のみならず、特定の意味を持たない装飾的な歌声、スキャットが盛り込まれていました。

以降、ジャズ音楽は歌唱を伴うようになっていきます。当時はこれが革新的で、多くのジャズミュージシャンたちが真似をしていくわけです。今日ではジャズボーカルという言葉もあるくらい、ジャズで歌声を盛り込むことは日常的になっていきました。

 

次第にスキャットは、『ドゥーワッ』『シュビドゥバ』『ダバダバ』『パヤパヤ』など、定型化したフレーズで盛り込まれるようになります。もちろんこれらの言葉には意味はなく、語感やリズム感が最適だったゆえに定型化していったのではないかと考えられています。

1930年代になると、楽器を買うことができないような貧困層の労働階級から、スキャットと手足を使ったリズムだけで伴奏を作るコーラスグループが現れ始めます。彼らがよく使う『ドゥーワッ』のスキャットが特徴的であったため、人々からドゥーワップの愛称で親しまれる音楽ジャンルとなりました。

 

ドゥーワップは1950年代に入ると、ロックンロールと同様に若者世代の人気の対象となりました。メインボーカルだけでなく、コーラスボーカルを多重に重ねて楽曲を作り上げるスタイルは以降のR&Bやロックンロール、ひいてはその後に生まれるポピュラー音楽すべてに影響を与えています。

この頃になると、ドゥーワップには楽器による簡単な伴奏が伴うようにもなりました。今日ではドゥーワップというジャンルは『1950年代の黒人コーラスグループ』のみを対象とする位置付けです。その後に生まれたコーラスグループたちの音楽はドゥーワップとは呼びません。

また、楽器を一切使わずに声のみで音楽を奏でるグループはア・カペラとして、ドゥーワップからは明確に線引きがなされています。

 

1950年代に特に注目を集めたドゥーワップは、のちの1960年代、ポピュラー音楽のメインストリームとなるソウルミュージックのシンガーたちに強い影響を与えていきます。

 

ソウルミュージックの誕生 

 

1950年代にR&Bはロックンロールへと派生していくわけですが、ロックンロールだけでなく、他のジャンルにも枝分かれをしていきました。

その最たる例がソウルミュージックでしょう。

 

元来のR&Bという言葉は、黒人音楽の総称として使用されていました。当時の黒人音楽の流行は、簡単に言えばリズミカルで軽快なブルースであったと言えます。その軽快なブルースが白人民謡と重なる形で生まれたのがロックンロールです。

そもそも当時のR&Bジャンルは黒人音楽すべてがない混ぜにされていたので、ブルースやゴスペル、ジャズなどの黒人由来の音楽の融合は当たり前のように起きていました。ただ、世相としても教会音楽であるゴスペルを世俗的にアレンジすることはあまり好ましくなかったので、ブルース要素に軽快なリズムを加える形で成長していったのは自然なことだと言えます。

しかし、中にはゴスペル色を濃厚にした音楽も存在していました。そこがソウルの源流となっていきます。

 

1958年にロックンロールが衰退すると、R&Bジャンルは再び、黒人特有の音楽性で発展していきます。

当時のR&Bを盛り上げた火付け役として、やはりレイ・チャールズの存在は特筆すべきです。僕も本当に大好きなミュージシャンです。

 

Ray Charles(1930.09.23〜2004.06.10 73歳没)

 

 

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幼き頃より教会音楽に触れていた彼ですが、その当時から弟の死視力の喪失など、悲しい出来事を経験しています。

のちにピアノを学び、優れた音楽的センスを身につけると、17歳の時にシアトルへと移動して音楽活動を開始します。トリオバンドを組んで、巷では有名なバンドにまで発展しますが、視覚障害持ちの黒人として差別も絶えず、また過去の弟の死のトラウマなどから薬物中毒にも陥ることとなります。

しかし、その翌年にはトランペット奏者だった15歳のクインシー・ジョーンズと友人になっており、とにかく人の縁に恵まれた人物であったのは間違いありません。クインシーといえば、アメリカを代表するトッププロデューサーです。

 

1949年に『Confession Blues』で全米R&Bチャート2位を記録すると、すぐさまツアーを開始。各地を回っている過程でアトランティックレコードから声がかかり、数々の楽曲をリリースしていきます。

1950年代初頭はシカゴ・ブルースやジャズの全盛期でしたね。レイ・チャールズももちろん、当初はスロウビートのブルースやジャズを中心に楽曲を作っていきます。

しかし、彼は自身の音楽性を広げていくのが少し苦手な側面がありました。ありていに言えば既存のアーティストの二番煎じと捉えられがちだったということです。

アトランティックの創設者であるアーメット・アーティガンと、R&Bジャンルの生みの親であり、当時はアトランティックレコードの取締役であったジェリー・ウェクスラーからも、「もっとレパートリーを増やしたらどうかな?」と提案されたほどでした。

日に日に多様化していくR&Bジャンルで勝ち残っていくためには、新しい音楽性の追求が必要なことだったのは間違いありません。レイはこれを機に、自身の音楽的ルーツを見つめ直すこととなります。

思考を重ねた結果、彼が幼き頃より親しんでいたゴスペルを、R&Bのような軽快なリズムに乗せて演奏してみることとしました。

 

レイのゴスペルをR&B化する取り組みの第一弾は、1954年リリースの『I’ve Got a Woman』です。ゴスペルではアップテンポな曲調として楽しまれている楽曲『I Got a Savior』がベースになっているのではないかと考えられています。

ゴスペルは黒人だけでなく、白人からも愛されていた音楽であり、この楽曲でレイは白人層からも認知されることとなります。

 

続いてレイは、男女の性愛を賞賛した楽曲『Night Time is the Right Time』を1958年12月にリリース。

これは彼がI’ve Got a Womanをリリースする際にバンドに加えたクッキーズという3人組女性コーラスグループのメンバー、マージー・ヘンドリックスと性的関係にあったときに作られた曲です。曲中ではレイとマージーの歌声の激しい応酬が見られます。こちらもR&Bチャートでヒットを飛ばすこととなり、レイは確かな手応えを感じていました。

 

1958年末頃、ライヴが予定より早く終わり時間が余ったので、その時間を埋めるために即興で楽曲を披露しました。

すべての曲目を終えた時点で、終了時間まで12分も残っていたことがわかったレイは、バンドメンバーたちに「聞いてくれ、俺が時間つぶしに演奏するから、お前たちは俺をフォローしてくれ」と言うなり、エレクトリックピアノを弾き始めました。

次第に彼の歌声とクッキーズの歌声がコーラスとして重なり、リズム隊はラテン感のある打楽器でビートを重ねます。やがてレイは脈絡のない、ゴスペル要素を孕んだ思いつきの歌詞を歌うと、曲調を変更。次にはクッキーズの3人に自分の歌唱メロディーを繰り返すように指示し、それが観客を巻き込むコールアンドレスポンスの形へと発展していきます。

 

会場は当然のように、熱烈な盛り上がりを見せました。

レイはこの即興演出を他のライヴでも披露しますが、どの会場も同じ反応が返ってきたことでこの楽曲のレコーディングを決意します。

 

1959年、彼のこの楽曲『What’d I Say』はR&Bチャートで1位に輝くだけでなく、ポップスチャートにおいても6位を獲得する大ヒットを記録します。この時点で、彼のゴスペルとR&Bの融合は達成されたと言って良いでしょう。信心深いクリスチャンたちからは非難を浴びますが、それ以上に全米中が彼の新しい音楽を賞賛しました。

1960年代に入ると、R&Bの中でもゴスペル色の強い黒人音楽をソウルと呼ぶようになります。この当時のソウルは、R&Bジャンルのなかでも大きなメインストリームの1つとなりました。レイ・チャールズはソウルの誕生と発展に立ち会った第一人者です。

 

今回ご紹介したレイ・チャールズのストーリーは、伝記映画『Ray / レイ』として世に残されています。

レイ役はジェイミー・フォックスが演じていますが、名演だと言わざるを得ません。レイ本人も、ジェイミーのあまりの演技力の素晴らしさに「君は俺の後継者だよ」と絶賛したほどです。ジェイミーはこの映画でアカデミー主演男優賞を受賞しています。

 

非常に優れた名作映画です。僕も実際に視聴していますが、そこには間違いなくレイ・チャールズが存在しています。興味のある方はぜひ、ご視聴ください。

 

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【終わりに】1960年代のソウル音楽の発展はまた次回!

 

今回はR&Bから派生した音楽の1つ、ソウルミュージックについて触れていきました。ロックンロールが隆盛し、落ち込んでいく傍らで、ソウルのベースは着々と形作られていきました。

次回は1960年代のソウル音楽について触れていきます。そちらもお楽しみに!

 

それでは今回はこの辺で!

また次回の更新でお会いしましょう!

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