『東西海岸ヒップホップ抗争』という言葉はご存知ですか?
90年代のアメリカンヒップホップがお好きな方ならご存知かもしれません。ヒップホップ自体にあまり興味がない方は耳慣れない言葉でしょう。
読んで字の如しで、アメリカの西海岸と東海岸の間で、ヒップホップアーティスト、またはそのファンたちが激しく対立した時期があったのです。実はこの悲劇は、現在活躍している数々の音楽アーティストに影響を及ぼしている出来事でもあります。
ヒップホップ文化がどのように隆盛し、どうして人々の対立が発生したのか。
さっそく、皆さんと一緒に紐解いていきましょう。
ヒップホップの隆盛とともに始まってしまった、二大勢力の抗争のドラマです。ポピュラー音楽の歴史上、重要な出来事としても語られています。
全ての起源はギャングスタ・ラップというジャンルの誕生から
東西海岸ヒップホップ抗争について語るうえで、必ずお話ししなければならないのがギャングスタ・ラップと呼ばれるジャンルについてです。
ギャングスタと聞くと、日本で言う、いわゆるヤクザのような人たちを想像するでしょう。ご推察の通りで、まさしくストリートギャング出身ラッパーの音楽を指しています。
1988年に、Ice-Tの楽曲I’m Your Pusherがアメリカ西海岸でヒットします。Ice-Tはかつて、ストリートギャング集団でハスラー(薬物売買や売春斡旋などの元締め)として活動していた経歴がありました。
彼のリリックには、随所にその当時の経験を交えた過激な表現が散りばめられていました。当時は人種差別や貧富差が問題となっていた時代だったこともあり、ストリート育ちの黒人がラップで表現するリアルなリリックは、人種を問わず多くの人々の心に刺さったわけです。
これが火付け役となり、西海岸で生まれたギャングスタ・ラップは、瞬く間に人々に認知されることとなります。
もともとヒップホップは、アメリカ東海岸の中心地であるニューヨークで盛んなジャンルでした。が、ギャングスタ・ラップ創成期には残念ながら、東海岸でギャングスタ・ラップで名を挙げたラッパーは多くありません。
つまり、シーンの注目が、東海岸から西海岸に持って行かれてしまうわけですね。
そんな東海岸を尻目に、西海岸のヒップホップの勢いはさらに加速します。Ice-Tの成功の後、1986年に結成したN.W.Aが、追いかけるように爆発的な人気を博しました。
N.W.Aは今なお伝説的なヒップホップグループとして崇拝されており、ギャングスタ・ラップのオリジン(元祖)と表現されることもあります。
メンバーではEasy-E(イージー・イー)、Dr.Dre(ドクター・ドレー)、Ice Cube(アイス・キューブ)が特に有名ですね。
N.W.Aの成功は、1988年の後期にリリースされたファーストアルバムStraight Outta Compton(ストレイト・アウタ・コンプトン)で確実なものとなりました。Dr.Dreが作り出す天才的なビートに、激しい黒人差別や貧困問題を生き抜いてきたメンバーたちのリアルなリリックが見事にマッチし、人々の心に強く突き刺さっていったのです。
N.W.Aは瞬く間に全米で認知されましたが、彼らのあまりに過激なリリックと、若者たちを扇動していく圧倒的な影響力に対して、政治家や警察関係者が危機感を覚えたことは言うまでもありません。
この当時のN.W.Aを取り上げた伝記映画が存在しています。彼らの半生を、エンタメを通して理解することができる非常に優れた作品です。気になった方はぜひご覧ください。
1990年代に入り、アメリカ東西海岸でヒップホップが大ヒット
1990年代に入ると、西海岸だけでなく、東海岸でもハードコアなラップが盛り上がってくることとなります。
西海岸に追いつくような形で東海岸がヒップホップの新たなジャンルを確立してきたのです。
この当時の東西海岸の競争は、互いを高め合い、ヒップホップをより認知度の高い音楽ジャンルへと昇華させることにつながりました。
西海岸ではギャングスタ・ラップがより強固なものに
N.W.Aは記録的ヒットを連発して絶好調でしたが、売上金の着服疑惑などが発端となり、メンバー間に不和が生まれます。結果、Ice Cubeが1989年に、Dr.Dreが1991年に脱退することとなります。
Dr.Dreはその天才的なビートメイキング能力を買われ、実業家として動いていたSuge Knight(シュグ・ナイト)の誘いを受け、1991年にDeath Raw Records(デス・ロウ・レコード)を共同で立ち上げます。
このシュグ・ナイトというのがまた、結構なヤクザ者でして。
Dr.Dreの獲得のために、N.W.AのリーダーであったEasy-Eに対し、暴力的な脅迫を実行したことは有名な話です。
もとよりギャングスタの人間がラップを盛り上げていたこともあり、西海岸で創設されたデス・ロウは極道組織そのものでした。その代表格であるシュグ・ナイトはとりわけ、極悪非道を極めていたわけです。
デス・ロウと言えば、Dr.DreやSnoop Dogg(スヌープ・ドッグ 当時はSnoop Doggy Doggと名乗っていた)など、現在でも活躍しているアーティストを抱えていたことでも有名ですね。
その中には、レジェンドMCとして名高い2PAC(トゥーパック)も在籍していました。
当時の2PACの人気は計り知れないほどで、リリースする楽曲はいずれも大ヒット。デス・ロウ所属後にリリースされたアルバムAll Eyez On Meは、西海岸を代表するレコードとなりました。
東海岸も負けていない! R&B要素を加えたグルーヴ感満載のヒップホップが話題に!
東海岸は長らく西海岸の後ろを追いかける形を取らざるを得ませんでしたが、1993年に大きな節目が訪れます。
そう、Bad Boy Records(バッド・ボーイ・レコード)の設立です。
当時、別のレコード会社の人材発掘・育成部門で優秀な成績を修めていたSean Combs(ショーン・コムズ 別名パフ・ダディ)が、突然の理不尽な解雇をきっかけに、自らの手で創設したレコードレーベルです。
バッド・ボーイはヒップホップだけでなく、R&Bジャンルにおいても多くのアーティストをプロデュースしている優秀なレーベルでした。楽曲もヒップホップ、R&Bのそれぞれの要素が融合されたサウンドが多く、当時はそれがとても新鮮で、瞬く間に人々から認知されます。ヒップホップだけに捉われず、他ジャンルをも手がけている点がデス・ロウとの大きな違いです。
CEOのショーン・コムズは、プロデューサーとしての手腕も優れている切れ者。
Faith Evans(ファイス・エヴァンス)やTLC、Mariah Carey(マライア・キャリー)、Boys Ⅱ Men(ボーイズ・ツー・メン)、Usher(アッシャー)などの有名アーティストたちのプロデュースも手がけています。
ショーンはレーベル創設後すぐにThe Notorious B.I.G.(ノトーリアス・B.I.G.、通称ビギー)とレーベル契約を結んでおり、のちにビギーは東海岸を代表するレジェンドMCへと上り詰めます。
1993年にショーン・コムズのプロデュースの元、ビギーのアルバムReady to Dieがリリース。
ショーンの戦略で西海岸のギャングスタ・ラップ要素を存分に取り入れた作風ですが、随所にR&Bテイストのメロウなサウンドも散見されており、同アルバムはヒップホップシーンの注目を再び東海岸へと集める大きな起爆剤となりました。
1995年を皮切りに、東西抗争が勃発することとなる
当時のヒップホップシーンは、地元のギャングたちと密接な繋がりがありました。ストリートギャングたちは縄張り争いや他のギャンググループたちと抗争を繰り返していたわけですが、そこにはヒップホップレーベルたちも関わっていたのです。
バッド・ボーイの成功は、ヒップホップシーンの主軸を再び東海岸のニューヨークへと戻すことへと繋がりました。しかしそれを皮切りに、西海岸と東海岸のシーンを争う対立が、ギャングたちを絡める形で勃発していくこととなります。
1995年、西海岸のデス・ロウCEOであるシュグ・ナイトが、東海岸で大ヒットを生み出し続けていたバッド・ボーイCEOのショーン・コムズに対し、『バッド・ボーイの楽曲には随所にショーン・コムズの名が登場している。CEOに媚びたくないアーティストはデス・ロウが歓迎する』といった発言をします。
それはまさしく、バッド・ボーイへの挑発でした。しかもこれは、音楽系の表彰式であるソース・アワードの授賞式の場で言い放たれたのです。
授賞式では実際にアーティストたちによるパフォーマンスも行われましたが、デス・ロウに所属するDr.DreやSnoop Doggのパフォーマンス時には、ニューヨークのヒップホップファンから大ブーイングが起きることとなりました。
1995年後半には、西海岸を代表するMCである2PACが銃撃される事件が発生。奇跡的に2PACは一命を取り留めましたが、この事件によって東西対立はより一層事態を悪化させることとなります。
奇しくも、その襲撃現場のビルの上階に、バッド・ボーイのCEOであるショーン・コムズと、東海岸を代表するMCであるビギーがいたのです。
バッド・ボーイ側がこの襲撃事件に関与していたかどうかは、現時点でも明確に証明されてはいません。2PACもこの時点では、バッド・ボーイの二人を疑うことはありませんでした。
なぜなら、2PACとビギーは過去に親交を深めており、互いにリスペクトを持っているほどの仲であったからです。
ですが、同年にビギーは信じられないタイトルの楽曲を発表します。
その名も『Who Shot Ya』。
誰が撃ったんだ、と2PACが被害に遭った銃撃事件のことを示唆するタイトルだったのです。
2PACはこの楽曲の発表を受けて、あの襲撃事件はバッド・ボーイの差し金なのではないか、と強い疑念を抱くようになります。
1996年初頭、2PACは悪名高いナンバー『Hit ‘Em Up』をリリースします。そのリリックの内容は、2PACがビギーの妻だったフェイス・エヴァンスと肉体関係にあることを示唆したうえで、はっきりとショーンとビギーを脅迫しているものでした。
これに対してビギーは特に言及はしませんでしたが、東西海岸の2大レーベルの関係が、完全に険悪なものとなってしまったことは言うまでもありません。
双方の関係が修復し難い状況まで到達してしまっていることを窺わせたのは、1996年3月、マイアミで開催されたソウル・トレイン・アワードの授賞式でのことです。
デス・ロウ、バッド・ボーイの両レーベルがそれぞれ、会場に銃を持った取り巻きたちを多数引き連れて登場する事態となったのです。
その異様な光景を、メディアは東西海岸ヒップホップ抗争と表現して全米に報道したのでした。
2人の偉大なラッパーの死
抗争の終結は最悪の形で訪れます。
1996年9月7日、2PACはラスベガスにて、友人であったマイク・タイソンのボクシングの試合を観戦していました。
試合終了後に車でシュグ・ナイトと帰路についていましたが、走行中に突如現れたキャデラックに横付けされ、銃撃を受けます。
4発被弾した2PACはすぐに救急車で運ばれましたが、6日後の9月13日に死亡が確認されました。享年25歳でした。
西海岸を代表するラッパーの突然すぎる死に、多くのファンたちが悲しみました。そして、瞬く間にこうも噂されるようになります。
2PACの襲撃はビギーの指示だったのではないか、と。
もちろん、これはビギー本人が否定しています。が、ビギーに対して疑いの目を向ける者は少なくなく、彼は西海岸中のヒップホップファンから後ろ指をさされることとなったのです。
翌年1997年3月9日、新たな犠牲者が生まれてしまいます。
ビギーがロサンゼルスで開かれたソウル・トレイン・アワードのパーティから帰る途中で、何者かから銃撃を受けてしまうのです。
銃創は致命傷となり、ビギーは帰らぬ人となります。
享年24歳。悲しいことにそれは、彼のセカンドアルバム発売を2週間後に控える日でした。東海岸でそのアルバムの発売を楽しみにしている人が多かっただけに、彼の死はショッキングな出来事として全米に報道されることとなりました。
東西海岸を代表する偉大なラッパー2人の死は、この抗争を一気に鎮めることとなりました。
西海岸のデス・ロウからは、2PACの死をきっかけに多くのアーティストがレーベルを去っていきます。
もともとCEOのシュグ・ナイトのやり方はストリートギャングそのものでしたし、彼の極悪非道なスタイルについていけないアーティストも多かったのではないかと言われています。
脱退者が増えたことだけでなく、東西海岸ヒップホップ抗争を受けてギャングスタ・ラップの社会的印象が地に落ちてしまったこともあり、ギャングスタ・ラップ一本でやってきたデス・ロウ・レコードは存続も危ぶまれる状況に陥ります。
シュグ・ナイトは2006年にレーベルの所有権を含む資産保護のために破産保護申請をしていましたが、自身が大小問わずそれなりの数の犯罪で逮捕されており、結局デス・ロウは事実上の倒産に終わっています。
一方の東海岸のバッド・ボーイは、ビギーの死後、発売が予定されていた彼のセカンドアルバムLife After Deathのリリースを決定します。
リリースされた同アルバムは全米で1,000万枚を売り上げ、ビギーの存在を伝説的なものとしました。ショーン・コムズは、ビギーの死後も、彼を一躍大スターへとプロデュースしてみせたのです。
ビギーのセカンドアルバムの大ヒットが味方して、バッド・ボーイはレーベルとしての地位を確固たるものとしました。
もとよりヒップホップだけでなくR&Bにも力を入れていましたし、音楽性ではバッド・ボーイの方が多様性に富んでいて優れていた、と言っても過言ではないのかもしれません。
優劣をつけるべきではないのでしょうが、事実、生き残ったレーベルはバッド・ボーイです。
そこにはショーン・コムズの実業家・プロデューサーとしての手腕の高さもあったでしょう。バッド・ボーイは今日に至るまで健全に運営を続けており、現在はユニバーサルミュージックの子会社として経営されています。
90年代後半に勃発した東西海岸ヒップホップ抗争は、二人の影響力ある偉大な存在の犠牲を受けて、ようやく沈静化したのでした。
失った代償はあまりにも大きすぎますが、彼らの死をなくしては抗争の終結は遅れていたでしょうし、もっと多くの犠牲が生まれていたかもしれません。
音楽とはカルチャーであり、文化です。ヒップホップはghetto(ゲットー、いわゆる貧困地域)との結びつきが強く、ストリートミュージックであるがゆえに、ギャングたちとの親和性が高いジャンルだとも言えます。
だからこそ、この東西海岸の対立は起きてしまったわけで、避けられぬ出来事であったと飲み込まざるを得ません。
ただ、純粋な音楽好きである僕としてはどうしても、二人が生きていたら今の音楽シーンはどうなっていただろう、と想像せずにはいられないのです。
ヒップホップミュージックも、今とは違う形を見せていたのでしょうか。
現在のヒップホップミュージックは2PACやビギーの影響が強く残っています。彼らに憧れてラッパーになり、現在注目を受けている人もたくさんいます。
そういう意味では、彼らの音楽はいまもなお生き続けていると言えるのでしょう。もちろん今のヒップホップシーンも大好きですし、嘆くことばかりでもないのかもしれませんね。
【終わりに】ぜひレジェンドMC2人の楽曲を聴いてほしい
彼らのアルバムは、現在でもリマスタリング盤で販売されています。もし興味があれば聴いてみてください。
リマスタリングは音質が劣化することもありますので否定派も多いのではないかと思いますが、当時発売されていたレコードをCD化した海外版を中古で購入するという手段もあります。そのほうが安く済みますので個人的にはオススメです。音質もなかなか良いですよ!
レコードプレーヤーをお持ちの方でしたら、当時のレコードを購入してみるのも良いかもしれません。新宿のディスクユニオンのソウル・ダンスミュージックショップで、2PACのデス・ロウ所属1発目の大ヒットアルバム『All Eyez On Me』のレコードが1万円越えで販売されていたのを覚えております。
ちなみに、僕はAll Eyez On Meの海外版CDを中古で買いました。お値段なんと600円。最高の買い物でした。笑
さて、いかがでしたか?
ヒップホップ史に残る大きな出来事である東西海岸ヒップホップ抗争。知らない方も多かったと思いますが、この記事を読むことで少しでも興味を持っていただければ幸いです。
90年代のヒップホップも良い曲ばかりです! ヒップホップをあまり聴かない方は今回を機にいくつか聴いてみてください。いまはYouTubeで気軽に楽曲を聞ける時代です。本当に良い時代になりました。
またポピュラー音楽にまつわる歴史を記事にしてみたいと思いますので、楽しみに待っていてくださいね!
それでは!