今回は、上流階級で生まれたクラシック音楽と、労働階級で生まれたカントリー音楽について触れていきます。
前回は黒人音楽をメインにお話ししてきましたので、今回は白人音楽がメインです。
前回の記事が気になる方はこちらからぜひご覧ください!
こちらを読了いただいた後の方が、今回の内容の理解もスムーズかと思います!
クラシック音楽の誕生
クラシックのルーツは聖歌
西洋の上流階級の白人たちの間で楽しまれていたのがクラシック音楽ですが、その歴史はすごく深いです。遡ろうと思えば紀元前まで遡ることができます。
黒人音楽もアフリカの民謡がルーツなので、同様に紀元前まで遡ることは可能ですが、クラシック音楽は『音楽史』として中学校の授業でも出てくるくらいですから、比較的歴史を辿りやすいです。
ただ、そのすべてを語ろうとするとかなり長くなってしまいますから、ここではクラシック音楽が直接的に影響を受けたルーツ、ルネサンス音楽についてのみ触れていきます。
西洋音楽が優れているのは、かなり早い段階で音楽理論が形成され始めていたことです。人々は声で音楽を奏で、どのように美しい響きを聴かせるかを研究していました。
グレゴリオ聖歌が6世紀頃に始まり、9世紀になるとネウマ譜と呼ばれる記譜法で音楽を記録するようになります。音楽理論自体はこれよりも前から文献が存在してはいましたが、譜面の基礎が誕生したことを考えると、より高度な理論の研究この時点から本格的に始まっただろうことが想像できます。
譜面への度重なる記録を経て、白人音楽は発展を繰り返していきました。15世紀頃になると、より多人数で歌唱し、いかに優美な旋律を生み出すことができるかを追求していく動きが見られるようになります。
この頃の音楽をルネッサンス音楽と呼びます。
主に声楽が重要視されていた音楽です。
楽器の発達に伴ってクラシック音楽が誕生
16世紀になると、ヴァイオリンの登場や金管楽器の発達に伴い、声楽と器楽を織り交ぜていくようになります。現在でも親しまれているオペラはこの頃から始まっていて、当初は主に宮廷で上演される演劇として楽しまれていました。
クラシック音楽は、このような声楽と器楽の融合から始まっていきます。そのなかでもとりわけ、貴族階級に楽しまれていた頃の音楽をバロック音楽と呼んでいます。
18世期に入ると、クラシックはバロック音楽から古典派音楽へと移行していきます。オペラに影響を受けて、劇のような物語性を音楽にも導入していくようになるのです。第1楽章から第4楽章まで起承転結を表現するソナタが生まれたのはこの時でした。
ピアノが生み出されたこともあり、より器楽を重要視するような音楽が生まれていきます。
もちろん、声楽も発展を繰り返していて、機能的和声法が生まれたのはこの頃です。トニック、サブドミナント、ドミナントなどは、楽曲制作をする方には耳馴染みのあるワードではないでしょうか。
古典派音楽の特徴のもう一つは、音楽が民衆にも広まっていったことです。上流階級の楽器プレイヤーたちが街中で演奏を披露するような風景も目立つようになり、人々の間で音楽が芸術として認知され始めたのもこの頃です。
19世期以降になってくると、クラシックは『上流階級の音楽』という壁を打ち破り、各地の民謡の要素も取り入れて、より民衆性の高い音楽へと移行します。
その頃には一般家庭の人々にもクラシック音楽家が現れるようになり、より幅広い人々に楽しまれていく音楽ジャンルになっていくのです。
この頃のクラシックはアメリカ南部にも流入しており、黒人が生み出したラグタイム(黒人クラシック)に影響を与えています。それが黒人由来の音楽であるブルースと融合することでジャズが生まれていく、という流れは前回お伝えした通りです。
カントリー音楽の誕生
アメリカにイギリス民族が移住
白人音楽はクラシックだけではありません。白人文化にも当然、地域ごとに民謡音楽(フォークソング)は存在しており、それらもアメリカへと流入してくることになります。
この歴史を振り返るにはまず、イギリスの国の動きを知っておく必要があります。
1600年に入ると、イングランドの王位にいたエリザベス1世が亡くなり、エリザベス女王に忠誠を誓っていたスコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世として君臨するようになります。
ジェームズ1世は宗教政策に力を入れ始め、カトリックや清教徒(ピューリタン)を完全に排除することを宣言しました。清教徒たちのなかには、弾圧を恐れてイギリス国外への移住を決心する集団が現れます。その最初の集団がピルグリム・ファーザーズです。
彼らはアメリカ北部マサチューセッツ州に移動しますが、到着した頃には食料も底をつきそうで、かなりボロボロな状態だったといいます。そんな彼らを見たアメリカ原住民のインディアンたちは、途方に暮れていた彼らを優しく援助しました。
インディアンはその歴史上、過去にイギリスに連れられた経験があったため英語を知っていました。新たな土地に上陸して右も左もわからないピルグリム・ファーザーズたちに、狩猟やトウモロコシの栽培などの生き抜く技術を教えてくれたのです。インディアンたちの援助のおかげで、彼らはマサチューセッツにコミュニティを築くことができました。
しかし、当然これにはイギリスも黙っていません。逃亡したイギリス人が別の大陸の原住民たちとよろしくやっていることがわかると、イギリス本国はすぐにその原住民たちを植民地化する動きに移ります。マサチューセッツ州はイギリスの最初の植民地となり、ついにピルグリムとインディアンたちにも対立が勃発してしまいます。
イギリスによるアメリカ北部の植民地化は順調に進み、ある程度の統治がなされてきた18世紀半ば頃、イギリス本土では産業革命が起こっていました。
革新的な産業技術が生み出され、様々な工場が出来上がりますが、工場を所持しているブルジョワ層と、その工場で勤務に従事する労働者層との間で明確な貧富の差が生まれていきます。やがて児童労働なども始まり、イギリスの労働環境は劣悪な状況になっていきました。
そうなると今度は、イギリスの労働階級たちがアメリカへの移住を考え始めます。ピルグリム・ファーザーズがアメリカ入植で成功を収めていたことを知っていた彼らは、より良い環境を求め、イギリス本国から逃げるようにアメリカ北部を目指し始めるわけです。
労働階級にいた貧しい白人たちも黒人たちと同様、辛い労働を紛らわせるために民謡を歌っていたのは想像に難くないでしょう。そんな彼らがアメリカに移住することで、それらの民謡音楽も一緒に流入していくこととなります。
イギリスの労働階級たちはすでに占拠が完了してしまっているマサチューセッツ州は避け、未開拓の場所を求めて移動していきました。結果、マサチューセッツからやや南に位置するアパラチア山脈付近に到着します。そこで彼らは独自のコミュニティを形成していき、やがて散り散りとなり様々な地域を転々と移動していくのです。
この頃の彼らの音楽は、『アパラチアン・ミュージック』、『マウンテン・ミュージック』などと呼ばれています。山脈付近はアメリカ国内において田舎という認識だったこともあり、これらの音楽を揶揄して『ヒルビリー(丘の方の田舎モン)』と呼ぶこともあります。
アメリカ西部の方に流れていった音楽は『カントリー&ウェスタン』と称されたりもしました。カウボーイの要素が入ってきたのは西部に流れからです。
これらの音楽はすべて、カントリーのルーツとなる音楽です。
アメリカ南部へと移動し、黒人音楽と邂逅
1920年代になると、アパラチア山脈付近の民族たちは、山脈の南側、位置的にはアメリカ南部にあたるアトランタに出向くようになります。大きな紡織工場があったので、そこに出稼ぎに行くためです。
自然とアトランタには白人民謡が集まるようになるわけですが、アメリカ南部の特性上デルタ・ブルースなどの黒人民謡はすでにそこにあったので、白人民謡がそこから音楽的影響を受けるのは自然なことでした。今日まで愛されているカントリーミュージックが誕生した瞬間です。
カントリーは限りなく大衆性を大切にしている音楽ジャンルであり、白人や黒人が生み出した様々な楽器を使用しているのが特徴です。ギターはもちろん、アメリカ生まれのヴァイオリンであるフィドルや、アフロアメリカンがアフリカの楽器の要素を織り混ぜて作ったバンジョーなど、「カントリーといえばこれだよね」と言われるような楽器はこの時代からすでに取り入れられていました。
折しも、この当時にはラジオ放送が始まっていました。白人が生み出したカントリー音楽は、アトランタの地から北米中に広まっていくこととなります。
世相的にも黒人音楽より白人音楽が好まれるような時代だったこともあり、アトランタは20年〜40年間ほど、レコード産業やライヴ活動の中心地として発展していきました。ビルボードによるヒルビリー・チャート(のちのカントリー・チャート)の公開も次第に始まっていきます。音楽チャートの成り立ちについてはまた次回解説いたします。
1924年にヴァーノン・ダルハートがカントリーミュージシャンとして全米から人気を得ると、そこに追いつくように様々なミュージシャンが誕生していきます。
1930年代にシーンに登場したジミー・ロジャースは、カントリー音楽に他ジャンルの要素を入れて発展させた第一人者でした。『カントリー音楽の父』と称される人物です。
彼の楽曲『Blue Yodel』は現在も歌い継がれている名曲です。
・おすすめCDはこちら!
ジミー・ロジャースと共演経験もあるカーター・ファミリーは、ロジャースと共に1930年代のカントリーシーンを盛り上げたグループです。ギター・ボーカルのメイベル・カーターはアメリカ白人ギタリストの開祖として、『ギターの母』と讃えられています。
彼女たちのギターフレーズを複数重ねてプレイングする重厚なサウンドは、のちのカントリーミュージックに大きな影響を与え、このジャンルにバンドスタイルを浸透させていくこととなります。
・おすすめCDはこちら!
1930年代前半の初期のカントリーでは、ドラムは騒々しいので入れない、というのが暗黙の了解だったようですが、次第にドラムを入れるバンドが出始めます。
この頃にはブルースからの影響を強く受けたカントリーも現れ始め、1940年に入ると、シカゴ・ブルースの隆盛に合わせて、カントリーでもエレキギターを導入するようになります。この頃のカントリーをとりわけ、ヒルビリー・ブギや、カントリー・ブギと称することが多いです。
ブギを代表するのはアーサー・スミスでしょうか。彼の楽曲『Guitar Boogie』は当時のビルボードのカントリー・チャートのみならず、ポップス・チャートにおいてもクロスオーバーヒットした名曲です。
アーサー・スミスの音源は、現在はストリーミングが中心で、CDは大手通販サイトでは取り扱いがないようです。盤で欲しい場合はオークション等を探してみてください。
【終わりに】カントリーはやがてR&Bと融合していく
白人音楽として隆盛していったカントリー音楽はこののち、黒人音楽であるR&Bと融合して、みんな大好きロックンロールへと進化していきます。
その過程については、またいずれ解説していくこととしましょう。
次回は、ロックンロールが生まれるために必要なもう一つの音楽ジャンル、R&Bの誕生と、アメリカ全体での音楽市場の変化について取り上げていきます。次回もお楽しみに!
それでは、今回はこの辺で!
また次回の記事でお会いしましょう!