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TAKESY
Lofi / Chill Beatmaker
日本のLofi / Chill レーベルJapanolofi Recordsのスタッフ。
海外レーベルから楽曲リリース経験あり。

◆Release Label◆
Etymology Records
Chill Moon Music
Tsunami Sounds
Lo-fi Clouds
Calm Waves Records
Wavee Sound
Japanolofi Records

よくわかるポピュラー音楽史 〜音楽産業の始まりと、R&Bの誕生〜

 

今回は、40年代後半に始まる音楽産業の発展と、R&Bの誕生について解説していきます。

黒人音楽であるブルースとジャズ、白人音楽のクラシックとカントリーの成り立ちについてそれぞれ解説してきましたが、1940年代に突入すると、様々な出来事が重なって、音楽産業はいよいよ本格化していきます。

その音楽産業の隆盛に合わせて生まれたジャンルがR&Bです。今回はその辺りの時系列を整理していきましょう。

 

目次

音楽ビジネスの始まり

レコードを使用した音楽販売

 

音楽記録媒体として、かつてはレコードが主流だったことは皆さんご存知でしょう。

 

トーマス・エジソンが1887年に発明した蓄音機は、音が発せらる時に生じる空気振動を利用して、回転している金属にリアルタイムで振動を与えて音溝を掘ることで音を記録していました。

エジソンが発明したのは、円柱状の金属に対して、円ではなく筒の部分に音を記録するものでしたが、ヨーロッパではエミール・ベルリナーが、全く同じ原理で円盤状のものを使用して音を記録していました。

エジソンの方は筒が1周してしまえば記録が終了しますが、ベルリナーの方は表面と裏面に音を記録することができるうえに、水平な状態で音を記録できるので音質も安定しており、記録媒体としては優れていたのです。レコードの原型はここで出来上がります。

 

レコードは次第に進歩し、シェラックレコードというタイプの円盤で音楽の収録がされるようになりました。素材から量産がしやすく、音質も悪くなかったため、『音楽をレコーディングして他者に聴いてもらう』ということが比較的容易にできるようになりました。音楽ビジネスはこの頃から大きな意味を持つようになります。

 

余談ですが、シェラック盤はサイズが大きい割には収録時間が5分と短く、ミュージシャンたちは表面と裏面に1曲ずつ、計2曲を収録して販売することがほとんどでした。A面B面という考え方はここから来ています。

オペラなどの組曲になると長時間の収録をするわけですが、シェラック盤数枚を一つのパッケージとして販売するためには、ハードカバーで分厚い写真アルバム状のケースに収納して販売する必要がありました。現代でも複数の楽曲が含まれたCDなどを「アルバム」と呼びますが、その由来はこういったところにあります。

 

また、ポピュラー音楽に関しては、面ごとに違う演奏家によるレコードを複数枚集めたアルバムが作られることもありました。これを乗合馬車(ラテン語でomnibus)に見立てて、「オムニバス」と呼ぶようになります。現在では「コンピレーション・アルバム」と言われるものの原型です。

 

ランキングチャートという概念の始まり

 

レコードが発明され、ミュージシャンたちが音楽を販売する時代になると、世の中には売れている音楽をランキング付けする風潮が始まってきます。

 

1914年、現在も音楽情報誌として名高いBillbord(ビルボード)が、世界で初めてポピュラーソングチャート(のちのポップスチャート)を紙面に掲載しました。これが大変な注目を集めることになります。

ミュージシャンたちからしたら、自分たちの音楽が第三者に格付けされているわけですから、これを機に制作意欲に火が付いたことは言うまでもありません。

ビルボードチャートはその都度形を変えながら、流行の音楽を大衆に周知し続けていきます。人々は売れている音楽、流行の音楽を知ることができるようになったのです。この時点から音楽需要が増え始めたのは想像に難くないでしょう。

 

ヴァイナルレコードの登場ですべてが変わった

 

人々の音楽消費量が急激に増えた要因の一つとして、1940年代後半のヴァイナルレコードの誕生が挙げられます。

シェラックレコードは音楽の記録こそできましたが、収録時間が短いうえに、耐久性に欠け、落としてしまうとガラスのように割れてしまうことが欠点でした。

それに対し、ヴァイナルレコードはビニール製。弾性があり丈夫で、かつ長時間の再生と高音質化を実現したのです。これはミュージシャンにとっても、リスナーにとっても大きな出来事となりました。

 

ヴァイナルレコードの流通と、リスナーの音楽消費量の増加により、ミュージシャンたちはさらに『売れる音楽』を追求していくようになります。

R&Bジャンルの誕生

 

音楽チャートが世の中に浸透してきて、ヴァイナルレコードの登場で音楽消費量が急増した1940年代後半。それぞれの音楽ジャンルはさらに多様化していきます。

本来ならここまで説明してきた各ジャンルの新たな動きについて詳細にお伝えしていきたいところですが、ポピュラー音楽を体系的にお伝えするにはいささか脇道にそれていきますので、いずれ各ジャンルごとに歴史をまとめる記事を掲載します。ここでは割愛させてください。

 

さて、R&B(リズム&ブルース)ジャンルの誕生についてお話ししていきましょう。このジャンルはビルボード誌が作り上げたことで有名です。

1917年のポピュラー音楽チャートの誕生以降、ビルボード誌は次第にジャンルごとに音楽チャートを作るようになりましたが、やはり人々が特に注目をしていたのはポップスチャートです。聴いていて楽しい音楽が人々から愛されていたので、チャートの上位には軽快なナンバーが入りやすくなっていきます。

ミュージシャンたちも、各ジャンルのチャートの上位を狙いながら、ポップスチャートにもランクインしてクロスオーバーヒットを目指すような動きが目立っていきました。

 

黒人ミュージシャンたちは次第に、音楽市場のトレンドに合わせて、ダンサブルなリズムビートに乗りながらブルースやゴスペルを叫ぶように歌う音楽を作り始めました。黒人シンガーたちが軽快に踊りながら、心情を吐露するように力強く歌唱する様は、人種の壁を超えて多くの若者たちの心を掴んでいきます。

しかし、白人の大人たちは黒人の音楽を見下す風潮がまだありました。この頃のビルボード誌が、黒人がリリースした音楽全般を、ジャンルを問わず一纏めにして『レイス・ミュージック(亜人種の音楽)』としてチャートを取り上げていたのは有名な話です。

 

人の心を掴むことができる音楽であるにも関わらず、人種差別的に敬遠されてしまっていることに違和感を覚えた白人男性がいました。ジェリー・ウェクスラーです。

 

Jerry Wexler(1917.01.10〜2008.08.15 91歳没)

 

ビルボード誌編集者として活動していた彼は1947年、「人種差別的に音楽を評価する時代ではない」として、レイス・ミュージックではなく、R&B(リズム&ブルース)と表現することを提案します。ビルボード誌はこの提案を採用し、1949年、初めてR&Bチャートが誕生しました。

 

このように、そもそものR&Bというジャンルの概念は、ブルースやジャズなどを含めて、黒人ミュージシャンたちが演奏する音楽全般の総称としての意味合いが強いです。

しかし、ブルースもジャズもそれぞれ成り立ちが異なっており、それぞれを専門としたミュージシャンやシンガーがいたことは言わずもがなです。となると、R&Bの音楽性としての概念はブルースやジャズと明確に分けて考える必要があるわけですが、それについてはとりわけ、この頃に新たに登場した、軽快なビートに合わせて情熱的に歌う黒人音楽のことを指すことが多いです。

現代R&Bはどちらかというとしっとりとした、大人の色気が漂う音楽として認知されていますが、元々はかなりポップなカルチャーだったわけです。

 

R&Bチャート創世紀のミュージシャンたちを見ていきましょう。

 

1946年に誕生したインペリアル・レコードはブルースやR&Bをメインにミュージシャンを集めますが、早い段階でアメリカ南部のジャズ発祥の地、ニューオーリンズに着目します。

そこでファッツ・ドミノを発掘し、彼の1949年のデビューシングル『Detroit City Blues』から、B面のThe Fat ManがR&Bチャートで2位の大ヒットを記録します。

 

Fats Domino(1928.02.26〜2017.10.24 89歳没)

 

 

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インペリアルのこの動きに触発されたのがスペシャルティ・レコードでした。スペシャルティは1952年にはニューオーリンズに赴き、ロイド・プライスを発掘。同年に『Lawdy Miss Clawdy』をリリースすると、R&Bチャート1位を7週間もキープし続けるという空前の大ヒットとなります。

 

Lloyd Price(1933.03.09〜現在 87歳)

 

 

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ここで弾みをつけたスペシャルティは、新進気鋭のミュージシャンの発掘に力を入れていきます。1953年にはインペリアルで活動していたギター・スリムを引き入れるなど、より精力的にスカウト活動に力を入れました。

 

R&Bからロックンロールへ

白人音楽カントリーからの影響

 

この当時からアメリカでは、ポップスチャートと同じくらい、カントリーチャートが盛り上がるようになっていきます。

ただ単に白人由来だからというだけではないでしょう。アメリカで発展を繰り返してきた音楽だからこそ、アメリカ人にとっては馴染みの深い音楽なのです。大衆性に重きを置いてきたジャンルであることも要因の一つかもしれません。

 

黒人R&Bミュージシャンたちも、カントリー音楽の要素をだんだんと導入し始めます。軽快なリズムで力強く歌唱するスタイルはそのままに、カントリー特有のバンドスタイルを採用して、より厚みのあるサウンドを目指したのです。

エレクトリック楽器のサウンドも存分に取り入れて、さらに踊れる音楽を追求していきます。そうした末に出来上がったのが、ロックンロールです。1950年代中頃には、曲名にも「Rock’n Roll」の表記が目立ってきます。

 

今日のロックはギターサウンドが映えるバンド音楽の総称ですが、元々は激しい踊りを目指したダンスミュージックです。現在もロックアーティストのライヴではヘッドバンギングで盛り上がる風土がありますが、それもダンスミュージックゆえのエッセンスだと言えるでしょう。

 

ロックンロール創世紀の代表ミュージシャン

 

先に紹介したファッツ・ドミノロイド・プライスは、ロックンロール創世紀を盛り上げたミュージシャンとしても知られています。彼らはいち早くバンドスタイルの音楽を導入し、よりダンサブルで激しい音楽を追求しました。

もちろん、その折には新たなロックンロールスターも続々と登場していきます。

 

1955年、ジョージア州で活動していたリトル・リチャードは、鳴かず飛ばずだった音楽活動を諦めることなく、あらゆるレコード会社にデモテープを送り続けていました。幸いにもそれが、スペシャルティ・レコードの目に止まります。

彼が世間にその才能を知らしめるきっかけとなった楽曲『Totti Frutti』は、人々にたくさんのエネルギーを与えました。パワフルな歌声に魅了された人も多かったはずです。力強い歌唱とピアノアクションが人気を博し、彼の楽曲は今でも愛され続けています。

 

Little Richard(1932.12.05〜2020.05.09 87歳没)

 

 

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シカゴ・ブルース誕生の第一人者、マディ・ウォーターズが所属するチェス・レコードは、ジャンル別に派生レーベルを作ることで着実に勢力を広げていましたが、1955年に一人のスーパーロックスターと出会うこととなります。チャック・ベリーです。

マディ・ウォーターズがチャック・ベリーのステージを見て、直接スカウトしたことでも知られています。ブルース界の巨匠に認められるほどのステージング、音楽的センスを有していたチャックは、1955年にデビューシングル『Maybellene』で世間から注目を集めます。片足で小刻みに前に進んでいくダック奏法が彼を印象付けるアイコンの一つとなりました。

 

Chuck Berry(1926.10.18〜2017.03.18 90歳没)

 

 

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テレビ放送開始による音楽産業の変化

 

人々が音楽を楽しむ機会は、ライブハウスやコンサートホールに行くか、レコードを手に入れるか、あるいはラジオ放送でDJが流すレコードを聴くかでした。しかし1940年代に入ると、アメリカではテレビ放送が開始していきます。

次々にテレビ番組が出来上がっていくなかで、ラジオ番組のいくつかは企画の一部をテレビへと移すことになります。そうなると当然、ラジオの番組タイムテーブルのなかに空きスロットが生まれます。

 

黒人音楽系のレコードレーベル各社は、この空きスロットに自分たちが抱えているミュージシャンの楽曲を流すことに積極的になります。

音楽番組のテレビ放送ももちろん、早々に始まっていました。が、当時の黒人ロックンロールミュージシャンは過激なステージングをする傾向にあったこともあり、どうしても白人音楽が取り上げられやすい風潮があったのです。

となると、ロックンロールの新曲を世間に認知してもらうには、ラジオ放送を使う他ありません。

レコードレーベル各社はラジオ枠をめぐって、放送局やラジオDJたちへの贈賄などを利用した熾烈な競争が始まっていきます。

 

ロックンロールが誕生してから、アメリカでは黒人の音楽は『野蛮で汚らしい音楽』であるという認識が浸透していきます。白人の大人たちは、若者世代に黒人音楽を聴かせることを強く嫌がるようになりました。テレビからは早々に黒人音楽は消えていき、テレビでパフォーマンスができた黒人は柔らかい表現に落ち着いたミュージシャンだけです。

確かに、ステージ上で腰を振りながら歌っている黒人の姿を子供に見せるのは嫌でしょう。人種差別の背景もあったので、黒人音楽全般に対して嫌悪感を抱いてしまったであろうことは想像に難くありません。

 

しかし、差別があったにも関わらず、黒人音楽が記録的なセールスを記録している事実がそこにはありました。これを受けて白人たちは、次第に黒人音楽を白人向けに作り替えるようになっていきます。黒人音楽を、白人がカバーすることで音楽チャートに食い込ませるようになったのです。

それも、ただカバーするのではありません。黒人たちのハートが乗った表現のすべてを、思いっきり柔らかくしてコピーしていきました。

 

この当時の白人歌手としてはパット・ブーンなどがいますが、ロックンロールやカントリーがエレクトリック楽器の表現を取り入れている当時では考えにくいほど、軟派な音楽をリリースしています。

あろうことか白人社会は、そんな白人シンガーたちの音楽を、『白人のブルース』『白人のロックンロール』などと表現して売り出していったのです。黒人たちからしたら当然、面白くありませんよね。

 

皮肉にも、この状況にもっとも疑問を抱いていたのは、白人の若者たちでした。

いつの時代も若者たちは流行に敏感です。彼らにとってロックンロールやR&Bは正しく、イケてる音楽でした。黒人たちが奏でる本場の音楽が素晴らしいことはとうに知っていたのです。

にも関わらず、テレビでは大人たちの都合で軟派な音楽ばかりが流れている。ラジオで黒人のロックンロールやR&Bが流れたかと思うと、すぐに親に番組を変えられる。人種差別的に音楽が虐げられているこの状況に、若者たちは黒人たちと同じくらいに不満を感じていました。

最高にダンサブルなロックンロール、最高にかっこいいR&B、最高にエモーショナルなブルースを楽しみたい。でも、親からはそういった音楽を聴くことを制限される。

多感な若い世代にとって、そこにフラストレーションが溜まらなかったはずがないのです。

 

しかし、それも終わりを迎えることになります。

一人の天才が、音楽界に革命を起こしたことによって。

 

【終わりに】ロックンロールの隆盛についてはまた次回!

 

ものすごく良いところで『続きはまた次回!』だなんて、僕も性格が悪いなと自分でも思います。笑

ただ、このまま行くと止め時を見失いそうですので、申し訳ありませんが一旦ここで締めさせてください。次回はロックンロールの隆盛から解説していきます。

実は、最初のロックの隆盛から、その衰退まではすごく期間が短いです。ロックが最初に味わう闇の時代までを時系列に沿って触れていきたいと思っています。

 

それでは今回はこの辺で。また次回の更新でお会いしましょう!

ではでは〜!

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